お遍路さん(四国遍路、四国八十八ヶ所めぐり)の起源って何?お遍路はいつ始まったの?

四国遍路第一番札所霊山寺

四国八十八ヶ所めぐり、第一番札所霊山寺

 

みなさん、お遍路さん(四国遍路、四国八十八ヶ所めぐり)の起源ってなんだかわかりますか?

真言宗のなかでは、四国八十八ヶ所霊場自体は、弘法大師空海が仏道修行の場として、弘仁6年(815年)、42歳の厄年のときに開いたと伝えられています。

この伝承は、真言宗の信徒や四国地方の人々の間で広く信じられているよう。

もし、この伝承が本当であれば、四国遍路というのは空海にゆかりのある遺蹟を訪ね、空海自身が歩いた道を行く大変ロマンティックな巡礼となりますよね。

ただし、残念ながら、空海がその年に四国で八十八ヶ所もの霊場を開創したとは、常識的に考えがたいと思います。

なぜなら、唐から帰国した後の空海は、都におけるカルチャースターであり、809年(大同4年)から14年間、高雄山「神護寺」で住持(仏法をとどめたもって護持すること。一寺の長である僧・住職であること)していたから。

空海にとって、弘仁6年(815年)は、まさに都で活躍している超多忙な時期で、いくつかの史実と照らし合わせても、その年に空海自身が四国をまわっているということはありえないはず。

せっかくのロマン溢れる伝承を、史実や常識で否定するのは何とも味気ないものですが、では、なぜ四国八十八ヶ所霊場の開創は弘仁6年(815年)とされたのでしょうか。

不思議に思い、インターネットで『弘仁6年』『空海』『開基』などをキーワードに検索してみました。

すると、謎が解けるどころか、四国以外にも弘仁6年に空海が開基したと伝えられる寺がいくつも出てきたのです(奈良、岐阜、静岡、三重、和歌山等)。

僕は、ますます分からなくなってしまいました。

その後もいくつかの文献にも当たってみましたが、結局分からずじまい。

で、僕は勝手に推測してみました。

 


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以下は、僕の推測です。

空海は、弘仁7年(816年)6月19日に、修行の地として「高野山を請う上奏文」を朝廷に提出していることから、空海あるいは弟子たちが、上奏文を提出する前に京を離れ、修行にふさわしい場所をさがしていたということは自然に考えられるんじゃないでしょうか。

あるいは、上奏文の中に、空海は『20歳の頃高野山の地に足を踏み入れていた』という記述があることから、空海の頭の中では、高野山を修行の地とすることはすでに固まっていて、勧進(社寺・仏像の建立・修繕のために金品を募ること)のために都をいくたびか離れ地方をまわった事実はあったのではないか。

いずれにせよ高野山がらみで、空海本人でないにせよ、弟子たちが全国を飛び回っていたのは確実だと思います。

もちろん、日本中で空海が開基したと伝えられる寺のすべてを空海が開いていることはありえません。

ただし、弘仁6年(815年)に空海が実際に開基した寺が、四国八十八箇所霊場の中にいくつかはあるんじゃないでしょうか。

これは僕の淡い願いです。

 


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では、実際にはいつ頃、お遍路(四国遍路・四国八十八ヶ所めぐり)が始まったのでしょうか。

高野山の僧侶、寂本(じゃくほん)が元禄3年(1690年)に書いた「四国偏路功徳記」によると、大師の入定後まもなく高弟の真済(しんぜい)が大師の遺蹟を遍歴したのが四国遍路の始まりとされています。

ですが、この本は真済の時代から800年以上後に書かれたもので、史実たる確証はないです。

他に、最も有名なものとして衛門三郎伝説があります。

永禄10年(1567年)に製作された『石手寺刻板』によりますと、天長8年(831年)、仏罰を被って8人の子供を失った衛門三郎が、髪を剃り家を捨てて四国偏路に出、焼山寺の麓で死ぬ間際に空海から石を授かり、やがて国司、河野息利(おきとし)のもとに石を握った男子が生まれた、とされています。

しかし、残念ながら、天長8年空海は病にかかっていて、四国を歩いていたことは考えられないですし、河野氏のもとに転生したというのも、どう考えても宗教上の都合で作られた壮大なフィクションにちがいありません。

他にもいくつかの説がありますが、どれも決め手となる資料に欠け、結局、明確なところは不明です。

ただし、少なくとも、平安時代初期における四国は、すでに修験者たちの修行の場であり(四国八十八ヶ所霊場のうち4か寺(12番焼山寺、47番八坂寺、60番横峰寺、64番前神寺)は、修験道の開祖とされる役行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)が奈良時代の大宝年間に開基したものといわれている)、讃岐に生まれた若き日の空海もそのような修験者のひとりであったとのこと。

前述の『高野山を請う上奏文』の中には、20歳の頃山岳修行の集団に入り四国山脈を歩き石槌山まで修行をしたという記述があり、自伝的要素を持つ『三教指帰(さんごうしいき)』では、空海が室戸岬(24番最御崎寺ちかく)や太龍ケ嶽(21番太龍寺)で修行をしたことが記されています。

奈良時代の多くの修験者や空海の修行時代を踏まえると、「四国遍路の原形」は1200年以上前から始まっていると考えてもよいかもしれないですね。

ちなみに、12世紀初に成立した『今昔物語集』巻31第14に、「四国の辺地と云は伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻(めぐり)也」とあり、やや遅れて成立した『梁塵秘抄』巻2では「衣は何時(いつ)となく塩垂れて、四国の辺道(へち)をぞ常に踏む」とあります。

これらの記述から遅くとも平安末期には、実際に四国の海岸線を歩き、四国を周る辺路修行自体はすでに存在していたといえるでしょう。

お遍路(四国遍路・四国八十八ヶ所めぐり)の札所が特定の霊場に固定され、ほぼ今の形になったのは江戸時代になってからだそう。

江戸時代になると、修行者だけでなく一般庶民も盛んに歩くようになったとのこと。

一般庶民が歩くようになったのは、真念が貞亨4年(1687年)に著した『四国遍路道指南(みちしるべ)』という本がきっかけといわれています。

この本は、今でいうとお遍路(四国遍路・四国八十八ヶ所めぐり)のガイドブックで、経路の明確化を意識してつくられ、詳細な情報が記されており、初めて八十八の番号と札所が一対一で対応させられた点でも特筆されます。

また、小型で携帯に便利で、内容が簡潔で分かりやすいため重宝されたようです(『四国遍路道指南』は明治以降まで版を重ねるベストセラーとなった)。

加えて、真念は、本を著したのみでなく、20回以上の遍路経験をいかし、迷いやすい場所に道しるべを作ったり、難路に遍路宿を建てるなどの業績も残しているんですよ(実際、四国を歩いてみると、真念がつくった道しるべは現存していました)。

ともかく、江戸時代には、真念らの活躍により四国遍路は整備され、多くの一般庶民が四国巡礼に訪れるようになった。

これだけは、疑いようもない事実です。

結局、これが現在につながるお遍路(四国遍路・四国八十八ヶ所の始まりということができるでしょう。

 


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